略歴



   國領經郎(こくりょうつねろう)は1919年10月、横浜で生まれました。
   日本が第二次大戦に突入した直後の1941年12月、東京美術学校(現在の東京芸術大学)師範科を繰り上げ卒業し、翌年1月には、図画の教諭として新潟県の旧制柏崎中学校に赴任しています。師範科で学んだのは経済的な理由によるものだったのですが、このことは、画家であると同時に、美術教育の専門家としての、その後の生涯に大きな意味を持つことになります。
   その間、4年にわたって兵役に服し、中国に滞在しましたが、教員生活に並行して制作を続け、復員後の1947年には第3回日展で初入選しています。
   1950年に東京に戻り、今度は大森第一中学校の教諭をしながら、主として日展および光風会展を作品の発表の場とし、1954年の第10回日展に出品した《赤い服のA子》以後、70年代初頭まで、点描法による制作を続けます。
 この点描の時代の末頃から、國領經郎の作品の最大の要素である、砂丘をモチーフとした作品が現れ、いくつかのヴァリエーションを伴いながら、晩年に至るまで展開されてゆきます。
   技法やモチーフ以外に、國領經郎の作品に関して最も注目され、評価されているのは、そこに表現されている深い精神性ですが、このことは、1983年の第2回宮本三郎賞や1991年の第47回日本芸術院賞の受賞などに、端的に表れています。
   このように、國領經郎は現代日本の洋画界を代表する作家となりましたが、すでに触れたように、同時に美術教育の専門家として多くの業績を残し、特に1968年以降は横浜国立大学教育学部(当時)で教鞭をとり、1985年にその教授職を退くまで、後進の育成に努めています。
   國領經郎は、1999年4月から予定されていた横浜美術館における國領經郎展の準備がほぼ終わった同年3月13日、79歳でこの世を去りました。したがってこの展覧会は、図らずも回顧展となりましたが、文字通りその画業を集大成するものでした。