日本近代美術史と國領經郎の位相

安井収蔵(しもだて美術館 館長、前・酒田市美術館 館長)



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   國領經郎が東京美術学校(現、東京芸大)に入学した1941年は第2次世界大戦が始まり、国内では文学、美術、音楽など言論、思想、表現の自由に対する統制が行われ、45年の敗戦まで西欧思想から鎖国、抑圧の状況にありました。敗戦の年、8月15日以降、美術界は立体主義、超現実主義が復活、51年、フランスからサロン・ド・メ展のモダニズム日本上陸、アメリカ生まれ非定形絵画(アンフォルメル)の移入、官展復活、日展(後に社団法人)が蘇りました。混沌に始まる半世紀余を國領經郎は画家、教育者として生き、1999年、21世紀を前に79歳で世を去りました。
   没後10年にも満たない今日、美術史的評価を試みるのは至難ですが、混沌とした美術思潮の半世紀余を写実ながら日展守旧派と異なり積極的に創作につとめ、数々の秀作、名品を残しました。また、2度にわたる美術ブーム、階級的差別によって組織された公募団体で、いたずらに富や栄誉を求めず、壮大な宇宙観を持ち、エッセイ集『砂の風景』のように、砂のある風景を主題に、華麗、芳醇な作品を制作。のちに修道僧のような禁欲的で抑制した己の姿を作品に投影しました。荒涼たる砂丘の水溜りに咲く名も無き一木一草に四季の移り変わりを感じ、哀歓の情を分かち、時間の流れに孤高な世界観を表現、清廉に生きた画家と考えます。
   当時、東京美術学校で若いが画学生に人気のあったのは改革派教授、藤島武二でした。直接、教えを受けた猪熊弦一郎、小磯良平、荻須高徳らは官展に加わらず新制作派協会を設立したことでもわかります。しかし、すでに藤島は退官、國領經郎は、師範科(今の芸術学科)の多くの仲間と同じように教師を目指しました。
   勉学のこの時代、当時の作品から黒田清輝以来、美術学校伝統の印象派の傍系、ラファエル・コランの外光派の表現が感じられます。第2次世界大戦の勃発とともに1942年繰り上げ卒業、多くの仲間達が幹部候補生なる下級将校を志したのに反し、名も無きの一兵卒として中国に渡り、戦意昂揚画、戦争記録画に携わることもありませんでした。むしろ揚子江デルタの広大な洲を見るに及び偉容、広大な空間を発見、自然の前に国家、人間の争いは如何に小さなものなのかを知ったようです。
   横浜國大の助教授就任は1968年。それまで柏崎、大森で図工教師、文部省の美術教育関係の仕事に携わり、かたわら画室を横浜に持ち、海浜風景に接し、高度経済成長のなかの民家、人物、港、工業地帯とさまざまに主題をとらえました。
   当時の作風、表現の変化に注目したいと思います。《A子像》(48年)、《画室》(51年)は明らかに立体主義、そして《少女》《裸婦》(55年)にはエコール・ド・パリのモディリアニを、《東京の海》(57年)、《港の風景》(58年)はルソーの素朴絵画を、《艀のある風景》(62年)《高速道路》(64年)の作品にはサロン・ド・メ系モダニズムへのさまざまな研究から得た表現があるように思われてなりません。これらの過程は同時代画家誰しもが通過した道でした。

左から《A子像》、《画室》、《少女》、《裸婦》  (画像をクリックすると拡大されます)

左から《東京の海》、《港の風景》、《艀のある風景》、《高速道路》  (画像をクリックすると拡大されます)

   作風遍歴のあと創造的な自身の絵画世界の構築が始まります。國領風景画の身上といえる砂の風景画完成は《海浜の風景》(71)年以降ですが、少女が横たわる《砂上の風景》(69年)にすでに予兆があります。海浜、砂丘に咲く花、ハマヒルガオなどに深い関心を持ったのもそのころです。しかし70年前後は日本のみならず世界的に学園が最も荒れた時代です。学生運動は尖鋭化しセクト主義におちいり、浅間山荘事件、リンチ殺人、内ゲバ、横浜國大は革マル派の拠点校となります。美術界では日展粉砕が叫ばれ、東京展へと発展、都上野美術館を会場とする公募団体が混乱した時代でした。

左から《砂上の風景》、《海浜の風景》  (画像をクリックすると拡大されます)

   当時の状況について、少しふれてみると、1968年、パリ、ソルボンヌ大学ナンテール分校に始まった教育制度改革の学生運動はカルチェ・ラタンの本校に及び、学生、労働者が連帯し、学者も加わり、反権力、反差別の輪が広がりました。権力の象徴であり末端である警官と衝突を繰り返しました。アラン、ジュフロアのような美術批評家も参加し反帝国主義、反資本主義、反アカデミズムを強烈に唱えました。運動は拡大しカルチェ・ラタンは無政府状態の解放区となり、オルリー空港は閉鎖され旧秩序の崩壊が危惧されました。「五月革命」と呼ばれるものです。
   同じ68年、東大医学部学生自治会が医師法反対の無期限ストライキに突入、同6月には医学部全共闘が東大のシンボルである安田講堂を占拠、国公立大学からマンモス私大の日大も加わり全学共闘会議を結成、東京芸大、とりわけ私立系美術大学は先鋭的になり、絵を描くような状態ではなくなりました。反帝、反権力の象徴は価値観の多様化を認めること、孤、個人の思考の尊重を訴えることでした。横浜国大は、革マル派の拠点校として荒れ狂いました。当時、國領は学生たちとよく語りました。「学生たちが、たとえば団体交渉など、集団で語るときと、私の画室で個人的に語るとき、その場によって異なる印象を受けます。それは二重基準ではありません。集団が個、孤になったとき、多様で柔軟な思考を持った皆優れた青年でした。〈孤〉の何たるかを制作者の問題として真剣に考えるようになったのは、あのころでした」と後年、述懐しています。砂の風景の中の〈孤〉が、それ以後のライフワークになったと信じています。後に芸術院会員に選ばれ、審査主任の役職についたときも「人間は平等であり、各々の〈孤〉に差別があってはならない」が審査の信条でした。

   一族にキリスト教牧師をもち、己に厳しくありながら他を許すことを知るこの画家は、学生達の声に耳を傾けながら、アンフォルメルのような極端な造形表現の流行を批判、冷静に時代風潮を観察、従来、大学のカリキュラムになかった裸婦モデルを教室に導入、あらためて絵画のアカデミズムを学生達と、ともどもに勉強しました。昨今の日展はアカデミズムの復活と称し写真のような婦人像、裸婦を毛細筆で描く流行が見られますが、アカデミズムとは関係の無い全く非なるもので、そこには美術が最も尊重する〈孤〉を尊重する創造性が欠如しております。
   砂の風景は30年近く前、下級兵士として見た揚子江デルタの広大な洲への追想に触発されたと思います。海岸、洲、砂丘を描いた画家は少なくありません。國領經郎の広大な空間、余白の表現は自身が美術学校で日本画を研究、彫刻、デザインを学び、幅広い素養があったからだと唱える研究者もいます。《昼の月》(76年)、《真夏の空間》(77年)、女性のパンタロン姿、アフロアメリカンヘアが登場。教室の学生、また、街で見かける風俗に敏感に反応、社会的風潮、いうところの日付のある絵画《若ものたち》(80年)、横浜國大キャンパスの《階段のある広場》(84年)など記録性のある作品が制作されます。

左から《昼の月》、《真昼の空間》、《若ものたち》、《階段のある広場》  (画像をクリックすると拡大されます)

   《遥》(80年)に次いで《風》(81年)は、精神的にも肉体的にも最も充実した時代に制作された華麗な昭和の名作として記録される作品と信じます。黒衣をまとった女人群像のなかに裸婦ひとり砂丘に風に逆らうように走ります。蝶が舞い地平の遥か彼方に豊幡雲が浮かび黒衣の中に肌色の手足、くるぶしの位置は的確に計算、配分されています。なによりも紺碧の空と黒衣と絵画的調和をもたらし、衣にまつわりつく蝶は作家個人の生きることへ歓喜の合唱曲ですらあります。絢爛な時代の作品です。

左から《遥》、《風》  (画像をクリックすると拡大されます)

   國領經郎は人物画家でもあります。特に女性の着衣に関する研究について、あまり知られていないことですが、昭子夫人のワンピースぐらいなら自身で仕立て上げるほどの器用な腕前でした。たとえば《赤い服のA子》(54年)の赤いワンピースなどもそうです。ルネサンス期の画家たちが人体解剖を試みたように、前述《遥》《風》などの着衣と人体の運動が一致しているのは、こうした着衣の裏側まで知り尽くしての成果といえましょう。

《赤い服のA子》  (画像をクリックすると拡大されます)

   華麗な絵画作法は相前後しながら直接的心象表現から間接的心象表現に向かいます。たとえば《轍》(82年)のように砂丘、砂浜の風紋にのこる車のタイヤのあと、足跡のくぼみ、それは宴後の空しい名残りかもしれません。象徴派文学の造形的表現とでもいうものでしょうか。廃船に羽根を休めるカラス《静止の空間》(83年)、折畳ベンチにうつむく女と影のみの人物《踞》(同)。くずれた砂防柵のある丘と画面いっぱいに翼を広げた鳶を描いた《呼》(90年)は空間がデザイン化される國領經郎様式。左隅に自身の影のある《二つの溜水》(92年)に注目します。山陰、庄内、遠州と日本海、太平洋の砂丘を尋ねての旅が続きます。雨後の浜岡(浜松近く)砂丘の麓に大きな水溜りを見つけました。以後、しばしば水溜りのある砂丘が作品にとり入れられました。

左から《轍》、《静止の空間》、《踞》、《呼》、《二つの溜水》  (画像をクリックすると拡大されます)

   絢爛といえ色彩画家の系列に加えられるとは考えませんが、國領は「私は色彩画家である」の意識を持っていました。紺碧のブルー、砂丘の黄土色、登場する人物のコスチュームに多彩な色彩を用いましたが、晩年は限りなく僧衣の黒に引かれます。好んだ色は枢機卿の衣の朱色。その色彩はすでに《赤い服のA子》に表れていますが《遥眺》(92年)では黒い徳利セーター、朱色のチョッキのうしろ姿の自画像を制作しています。朱色のチョッキは昭子夫人が編み上げたのだそうです。平安な家庭から生まれた作品です。87年から94年に至る《想》《希》《望》の3部作の女性立像はすべて枢機卿の衣のようです。ひたむきな連作に求道者の精神とかかわりがあるのでしょうか。

左から《遥眺》、《想》、《希》、《望》  (画像をクリックすると拡大されます)

   既述『砂の風景』には「・・・風が竹簀を鳴って通ると、突然大きな鳶が飛びたって、またたく間に中空高く舞い上がった。私の今見ている砂の風景は、鳶にはどう見えているのだろう」とあります。その空中飛行願望は《晨》(89年)、《暁色》(91年)、《汐干》(93年)そして《飛行船の浮かぶ港の風景》(93年)に到達します。鳥瞰画法は画家誰しもが試みたい構図です。飛行船を画面中央に浮かばせる、大胆な構図で、壮大な空間があります。かつて従軍画家、向井潤吉が上空から中国の地方都市、市街にうつる輸送機の影を描いたことがあります。國領經郎には絶えず新鮮な視覚の発見があります。

左から《晨》、《暁色》、《汐干》、《飛行船の浮かぶ港の風景》  (画像をクリックすると拡大されます)

   國領經郎は1999年、79歳で世を去りました。その3年前、すさまじい制作のエネルギーで世に問う仕事を見せました。〈韻〉3部作の《兆》(96年)を中央、左右に《手・手・手》(93年)《手・手・手U》(96年)の黒衣の女人群像、それは、あたかも中世祭壇画の如く《兆》は、ひざまずいて天を仰ぎ両手を高く捧げ祈り、訴える女人。画家来世への願いがあったのかも知れません。《風》(81年)と並び称される秀作と信じます。また同じ時期に、《潮溜》《東風》《寂寥》など環境公害、蝕まれてゆく自然の大作を描いています。

左から、《手・手・手U》、《兆》、《手・手・手》  (画像をクリックすると拡大されます)

左から《潮溜》、《東風》、《寂寥》  (画像をクリックすると拡大されます)


   日本画家は黄河、長江文明の伝統に従い〈気〉の動きについて敏感に反応します。この気とは気韻生動という精神性の強いものですが、國領經郎は、もうひとつの気、空気、風の動き、周りの気象学的作用に深い関心を持っています。「私が好んで描く砂の風景には、無限の広がりと奥行き、そして砂を渉る空気の動きが不可欠なのである」(『砂の風景』)といっています。作品の中に見られる砂の風紋、羽根を広げる鳶、豊幡雲に、國領の「風」を詠み取ることができます。
   また「絵画空間に現れる形や色彩に対する感覚は、日本は横の広がりに、西洋は前後の奥行きにそれぞれの特質を要約することもできそうである・・・」(同)、そしてこの画家は、絶えず日本画の空間(余白)、間を意識し「小さな点でも画面上の位置に所を得れば周囲の空間(余白)を支配することができるということである」とも語っています。
   國領經郎は彫刻家でもありました。横浜、菊名の玄関、画室には3体の高さ44.5aの女人立像があります。1体は3女性の群像です。彫刻技術の巧緻、完成度は手足5本の指先をみれば、おおかた判るものです。國領の彫刻は隅々まで神経の行き届いた秀作です。そして記録に残すべき作品は1986年9月、横浜駅東口・横浜新都市ビルに作られたモニュメント《希望》に凝縮されます。高さ240a横1450a6枚のアルミ彫刻をつなぎ合わせた大作です。ライフワークのひとつ女人群像。古代エジプト絵画形式の横向き立像です。大地から昇る太陽を恭しく捧げ拝む迫力に満ちた群像です。作家自身が鋳造工場に出かけ現場で制作指導しました。学園紛争のさなか、副題を「希望を求める若ものたち」といい、学生たちへの理解と心情というものでしょうか。
   読書家でもありました。前述、エッセイ集『砂の風景』〈文学のなかの美術〉中、野口米次郎の詩にふれ「エドガー・ポーと芭蕉とを宗とするといわれる彼の詩には日本の血は消えない・・・片時として芭蕉を肌から離さなかった彼・・・』と記述しています。野口への共感ではなく連帯と考えます。〈井伏鱒二“「奥の細道」の杖の跡”より〉では「三代の栄耀一睡の中にして・・・」俳人、芭蕉に人間の理想像を求めているように思われてなりません。が、決して古典にのみに智を求めるのではなく、野間宏、大岡昇平ら近代文学にも深い理解を示しています。
   そういった意味からも作品は、多分に幅広い文学的な意味合いを持っています。ロマ人は旅を続けることが人生そのものであるように、この画家にとり砂丘を求め描くことが人生でありました。それは河口や洲、海浜風景になりましたが、芭蕉の『奥の細道』のように漂泊の旅を続け〈行く春や 鳥鳴き 魚の目は泪〉また〈塚も動け わが泣く声は 秋の風〉〈閑さや 岩にしみ入る 蝉の声〉など静寂の中に清教徒的生への哀歓を分かち合っています。が、芭蕉が持ちつづけた無常の悲愴感や、閑さや・・・とは異なったものでした。それはつねに横浜国大の若い学生との交流があったからでしょう。
   世を去る1年前《薄ら陽の砂洲》(98年)。鳶の舞う鳥瞰図、洲の遥か彼方に朱色チョッキのうしろ姿は自身像でしょう。それは過ぎ去り日への追憶を魂魄の如くに天空から眺めたものかもしれません。遡れば《呼》(90年)ごろから大徳寺、龍安寺の枯山水の庭園を見るかのように、その作品は花鳥風月を排除する様相を呈してきます。枯れ山水は室町時代に渡来した宋・元の水墨画から影響を受け小堀遠州が完成した庭園。石組みを主とし、水を表すのに砂礫を用いました。精神的には禅を要諦とし、造形的には夾雑物を消去した能、茶の湯に通じるものがあります。

《薄ら陽の砂洲》  (画像をクリックすると拡大されます)

   近代日本美術史の中、國領經郎の絵画は現代西欧美術思潮に軟着陸しながらも、油彩画の今日的発展を図りました。たえず造形的視覚の発見に努力し、自らを抑制する禁欲的な清潔感は、それを守るために旧大陸から新大陸に渡ったアーミッシュの暮らしの如くでした。枯れ山水を彷彿させる辺境の砂の風景に己の精神性を塗り込め、美しい美を発見、開拓したことは高く評価されます。今日、精神性を失った油彩画は単に伝統工芸の道をたどる以外ありません。反省させられる課題です。國領經郎を顕彰し、この画家が歩いた道を振り返り、糸口として絵画、アートの何であるかを考えたいと思います。